白き懐に抱かれて 8

城の外で起きている、なにやらきな臭い事件。
手塚にはこれから起こることが分かっているのだ。
その証拠に、秀吉が寄越した文も手塚にはそうなる事が分かっていた。
多分、不二を近江に行かせた事も、いやそれに至った発端からして手塚には分かっていた事なのかもしれない。
不二には見えない、けれど手塚には見えているもの。
それが何なのか、この先に何が待ち構えているのか。
見てみたい。
この件に関わった者として、また自国の主がどれ程の者なのか、成り行きを見届けたいと思う。

不二は今また近江の城にいた。
やっと里に帰れたと思ったのもつかの間、日を置かず少し前まで潜んでいた天井裏にまた舞い戻ったことになる。
しかし城の様子は前回とは違っていた。静かで落ち着いていた城は雑多な活気に満ちていた。
手塚が来客として呼ばれたこともあるが、一番の理由は普段はいないこの城の主、秀吉が来ているからだ。
少数の家臣だけを連れこの城にやってきた男は、不二の目からみてもあまり武将らしくない。
手塚やその家臣達くらいしか比べる人間を知らない不二が言うのも何だが、秀吉は彼らと違い、常に忙しない印象がある。
今や押しも押されもしない織田家の重鎮。もっとどっしり構えていてもおかしくないのだが、今も堂々と挨拶の言葉を述べていた手塚に駆け寄り、その手を取ってよく来られたと振り回している。
秀吉付きの家臣にはいつもの事なのか、傍らで身じろぎもせずその光景を眺めているし、手塚にしても落ち着いて相手の気が済むようにさせている。
手塚とは親子ほども離れている年だろうに、この差は何だろう。
これではどちらが若いか分からない。
これは出自の所為なのだろうかと思う不二は、けれど邪気ない様に振る舞う男が隠しているもう一つの顔を探ろうと目を凝らす。
天井から覗いている部屋では、人払いをした秀吉が手塚に好々爺の顔を向けていた。

「それにしても国光殿のところには良い薬師がおられますな。いや儂もあちこち手を尽くして評判の薬を手に入れたが、どれも効果は得られずどうしたものかと頭を抱えておったのだ。だがそれもそのはず、まさか毒草を盛られていたのではそれも頷けますな。おかげで大事にならずにすんで、お礼の申しようもない」
「いえ、私にとっては叔母は母と代わりありません。力を尽くすのは当たり前の事。薬が効いて何よりでした」
「おお、そうであった。国光殿にはお母上代わりでしたな。もうお会いになったか?」
「いえ、まだです」
「そうか。積もる話もあるだろうし、好きなだけ滞在してくだされ。それにしてもどんな人物なのですかな?その薬師殿は。これほど優秀な者であればぜひ会ってみたい」

秀吉が興味を覗かせた。
毒を見破ったのがどんな人物なのか知りたいのだろう。
手塚の考え通りなら、計画を邪魔した事を腹の中では憤っているに違いない。顔には出さないが八つ裂きにしてやりたいと思っているだろう。
どことなくそんな気配があるように思える。
しかし手塚はそれをあっさり断った。

「秀吉殿が興味を持たれるほどではありません。ごく普通の者です。そうですね、少々頑固なところがあるので時折骨が折れます」

---頑固って、骨が折れるって、一体誰が!そっくりお返しするよ!

むっとした不二の気を感じた訳ではないだろうが、手塚が一瞬視線を不二に向けた。
この男のことだ。不二が何も出来ないのを良いことに面白がっているに違いない。
これ以上ここにいてつまらない話を聞いていても仕方がない。もう秀吉の顔は見たし、姫の様子でも見に行くか、と半ば本気で思った不二だったが、「ところで……」と声の調子を変えた秀吉の言葉に神経を尖らせた。
下では秀吉が手招きで手塚に側に来るよう促している。そしてぐるりと当たりを見回し誰もいない事を確認すると、声を潜めて言った。

「毒を盛った者だがな。この城の者であった」

まつの事だ、と不二は聞き耳を立てた。
部屋では扇子で口元を隠す秀吉が、着物が触れ合いそうな程手塚の近くにいる。
そして手塚の顔をちらりと盗み見ると、手塚が口を開く前に大げさに飛び退いてまくし立てた。

「いやいやいや!腹立ちは尤もなこと。外部からの侵入者であるならまだしも、まさか城の者とはこの儂もにわかには信じられなかったですからな。我が城でこんな不祥事が起こるとは何とも言い訳のしようがないが、儂とて手塚殿に負けない位怒っておるのだ。けれど、幸いにも姫は無事である。ここはこの秀吉に免じて気を鎮めては下されんか」

その間にも秀吉の身振り手振りは休まらず、この男の落ち着きの無さを見せていた。
けれどそれが目くらましの目的もあるのでは、と不二が思ったのは、まくし立てている間にもちらりと相手の様子を伺う仕草があったからだ。
猿芝居をして相手の反応を伺う、それが男のやり方なのかもしれない。

---この秀吉という男、油断ならない

一方手塚は秀吉とは対照的に、何の感情も見せず秀吉の言葉を聞いている。
まっすぐに伸びた背中は、今や脅威の存在である信長の重鎮を前にしても臆することはないらしい。
それが余計に秀吉を芝居がかって見せているのだと、不二は自分の主を眺めた。

「分かりました。叔母も回復されたようですし、私も事を荒立てるつもりはありません」
「おお、さすが若くても手塚家のご当主であられる。いや、これで両家の絆も安泰ですな。義理とはいえ、そなたは儂の甥、これからも力を合わせて助け合いましょうぞ」

いや、良かった良かったと笑う秀吉に、しかし手塚は相変わらず表情一つ変えない。
そして秀吉がひとしきり笑った後に切り出した。

「それで、その者は」

ぴたりと秀吉の笑いが止む。そして再び手塚ににじり寄ると、先ほどよりも近くに顔を寄せた。

「そこが問題なのだ。その者、名をまつといったのだが、ごく普通の下働きの娘でとても毒草など扱えたとは思えぬのだ。そこで儂は、まつは誰かに命じられて毒を盛ったのではないかと思っておるのだが」
「……」
「まつに聞けばその人物も分かろうが、生憎まつは城を飛び出した後、物取りに襲われたらしく、切り捨てられて見つかった。城の者が探しに追いかけたのだが、少しばかり間に合わず、見つけた時にはもう死んでおったそうだ」
「……ではまつの後ろにいる者は分からず終いなのですね」

幾分目を伏せた手塚に、秀吉が一瞬にやりとする。
そして極秘の話をするかのように更に声を潜めた。

「いや、分かっておる」

誰の名を言うのか、神経を研ぎ澄まして不二は秀吉の口元を見た。
パチリ。
静かな部屋に扇子の閉じた音が響く。
秀吉の顔が天井に向き、不二は一瞬見つかったかと焦ったが、すぐに気を落ち着ける。
大丈夫。気配は消している。気取られるはずがない。
じっと身を潜めて不二は真下を眺める。
やはり先ほどのは、ただ単に誰もいない事を再度確認しただけのようで、秀吉はぐるりと部屋を眺め回したあとまた扇子を広げ、手塚の耳に顔を寄せた。

「丹波殿だ」

ぴくりと手塚の眉が上がった。
何かを言いかけた手塚を制して秀吉が続ける。

「あー、言わずとも分かりますぞ。信じられぬのも無理からぬこと。だがまつは明智殿が下働きにと寄越した者。繋がりがないとは思えぬであろう」
「ですが私には明智殿がそのような事をなさるとは思えません。何かの間違いでは」
「いやいや、温厚に見えてその実、腹に何を抱えておるのか。国光殿はまだお若いから分からぬかもしれないが、人という生き物は外からは計り知れないものですぞ」
「しかし、もし仮にそうだっとして、叔母に危害を加える理由が見あたりません」

相変わらず動きや言葉の端々が大仰な秀吉に対して手塚は冷静だ。
一応、言葉の上では驚きを表しているようだが、ほとんど表情が変わらないだけに、秀吉を芝居がかって見せている。
手塚にしてみれば秀吉の言いたい事などは初めから分かっているのだから、それも当然のことで、本人は茶番に付き合っている程度だろう。
確かにここまでは手塚の推測通りだ。
まつが丹波から来たといって、明智光秀が裏で糸を引いているというのは随分と強引過ぎる。
秀吉が光秀に対して何らかの意図を持っていると思って間違いなさそうだ。
不二は息を殺して二人のやりとりに聞き耳を立てる。

「そこが奴の小狡いところよ。直接儂に毒を盛れば騒ぎが大きくなり、すぐに自分が疑われる。しかし姫ならば時間稼ぎが出来る。事実、徐々に弱らせていったではないか。あれは姫の容態を理由に儂を信長様から遠ざける魂胆だったのだ」
「いくら何でもそのような……」
「いいや、理由はいくらでもつけられる。姫が弱っているのは流行病に罹っているからで、儂も大事をとったほうがいいとか、気がかりがあってはお役に支障がでるとか、まあ色々とな。だが儂がちっとも動こうとしなかったので、しびれを切らしたのであろう。流石に姫が亡くなったとあったら帰らん訳にはいかないからな」
「ですが……」
「恐らく奴の指示はこうだ。毒草を姫のお茶に紛れ込ませる。そのあとはすぐ城を出るように言ったのだろう。そして口封じに物取りに見せかけて切ったのだ。……国光殿、儂だってこんな風に思いたくはない。だがな、奴はこの儂が邪魔なのだ」

ここまで言って秀吉は手塚から少し離れた。
ぱさぱさと扇子を仰いで風を起こす。
そして大きなため息をつくと、さも残念そうに言った。

「最近、信長さまは明智殿に厳しいのだ。大勢の家臣の前で叱責される事も度々での。国光殿は滅多に信長様の前には上がらぬから知らないであろうが、それはそれは聞いているこちらのほうが震え上がるほどでな。明智殿は何とか信長様に取りなそうと必死なのだ」
「だから秀吉殿を信長様から離そうとした、と?」
「儂を遠ざけ、その隙に取り入ろうと思うておるのだろうが。国光殿も気を付けられることだ。姫で失敗した今、次はどこを狙ってくるのか分からんぞ。ま、その時は遠慮なく儂に言って下され。いつでもお助けするゆえ」
「……ありがとうございます」
「……時に、近々儂は中国に攻め入る。その時は国光殿、そなたにも来て頂きたい。まだ若いそなたのこと、国を守るばかりではなく、戦に出てこそ手塚家当主としての腕を存分に振るえるというもの。利家殿もそなたのことは買っておるし、勝ってそろそろ信長様の家臣に加えて貰わねばのう」

そう言ってひとしきり笑った秀吉は、手塚に心ゆくまでの滞在を許し、部屋を出て行った。
頭を下げたままで手塚の表情は見えないが、その背中から怒りが漂っている。
不二は辺りに人がいないのを確かめると、手塚の側に降り立った。

「殿……」

気配はもう分かっているだろうが、声を掛けずにいられない。
年若いという事、叔母を人質に取られている事、益々勢力をつけている織田との渡り合い、立場の弱さは歴然で、如何な手塚といえど一国を守る主である以上、耐えねばならない。
いつも尊大で不二には暴君と思う振る舞いをする手塚だが、実際は不二よりほんの僅か年上なだけ。
先代の殿がご存命であれば、とは時折章高が漏らす言葉だが、彼にとっては息子くらいの年の手塚が重責を担っているのを痛々しく思っているのだろう。
今それが分かる。
どれ程の重荷をこの男が背負っているのか、不二にもその苦しみと葛藤が想像出来る。
極力、戦を遠ざけたいとしている手塚でも、秀吉の要請を断るわけにはいかない。
そんな事をすれば、あの小さな国は瞬く間に織田に滅ぼされてしまう。
越後の上杉に頼る手もあるが、謙信公亡き今、跡目争いで疲弊したあの国は自国のことで手一杯だろう。
どんなに腹立たしかろうと、耐えるしかない自分より広い背中を見つめ、不二は手塚の胸中を思わずにはいられない。
だが声を掛けた不二に一呼吸置いて振り向いた手塚は、ごく静かに微笑んだ。

「叔母上に挨拶に伺いに行こう」
「殿、先ほどのお話」
「きっとお前の事も待っておられるぞ」
「安土へ確かめに行きます」
「久しぶりだ。きっと喜ばれる」
「僕が信長様と明智様の様子を探って」
「駄目だ!」

低いがぴしゃりと切られる。その勢いに不二は思わず口を噤んだ。
手塚の顔は怖いくらいに厳しく不二を見ている。

「安土へ行くことは許さん」

低い声で手塚が繰り返した。
一瞬の苛烈を抑えるように、ゆっくりと言葉を発するが、そこには隠しきれない苛立ちが混ざっており、却って手塚の心情を表していた。
それでも事は差し迫っている。
はやる気持ちを胸に、不二は出来るだけ冷静に今すべき事を口に乗せた。

「今の話の真偽を確かめなければなりません」
「分かっている。すぐに誰か向かわせる」
「ですから僕が」
「駄目だ!」

だが手塚の言は変らない。
今の状況が分からないわけではないらしい。寧ろ各国、各人物を知る手塚は不二以上に分かっているはずだ。
一つ出方を間違えれば取り返しのつかない事になりかねない。
事実、手塚からは焦りのようなものが感じられる。
けれど手塚は命じない。

「何故……ですか。僕では役に立たない、と……?」

手塚が命じないのは、忍としての自分を未熟だと思っているからなのだと、不二は悔しさを押し殺して聞いた。
確かに経験は不足している。手塚が不安に思うのも仕方がないかもしれない。
けれど何も戦の只中へ飛び込むのではない。
先日この城に忍び込んだと同じに、織田の居城に紛れ込むだけだ。
そう難しいことではない。
実戦こそ少ないが、これでも不二の腕前は章高も一目置くのだ。聞き入れられないのは納得がいかない。

「そうではない。お前が優秀なのは分かっている。章高からも聞いているしな。だが、秀吉殿の話が真実ならば、今、安土城は危険だ。織田方だけでなく明智の手の者も潜んでいるはず。……あそこへはもっと手慣れた者を置く」
「……分かりました。しかし殿、今から国に知らせを出しても城に入り込むまでには時間が掛かります。事は一刻を争う様子。今、安土に一番近いのは僕です」

手塚が信頼する里の老練者がくるまでの繋ぎでなら、不二は尚も訴える。
あの城で何が起こっているのか、事実を掴まない事には手の打ちようがないのだ。いたずらに秀吉の言葉に踊らされることは出来ない。
手塚は不二以上に分かっていた。
不二の訴えに耳を傾けた後しばらく目を瞑っていたが、やがて深いため息をつくと渋々ながら了承をした。

「何があってもこちらの素性を気取られてはならない。特に織田には、だ。代わりの者が行くまで誰とも接触するな。危なくなったら構わず退け。……くれぐれも無茶はするな」
「はい。お任せ下さい」
「それから……」

ふと手塚は言葉を切ると不二を見つめた。
そして言葉の続きを待つ不二の顔をしばらく眺めた後、発つのは明日の朝にしろと言うと、叔母である姫に会うために立ち上がった。





不二がこの城を去ってからそう日数は経っていないが、手塚の叔母である姫は二人の訪れを大層喜んだ。
本来不二は手塚のお供として訪問しているわけではないので、いつも通り天井裏に控えていたのだが、手塚が不二も一緒に来ていると話すと、自らの手でお茶を振る舞ってくれた。
甥である手塚とはもっと久しぶりのはずなのに、姫は不二の顔を見ると嬉しそうに微笑み、帰ってしまって寂しいとか、今度はいつ来るのかなど不二を気に掛けた挙げ句、このまましばらく自分の客として滞在してはどうかと言いだし、手塚を困らせもした。
もうすっかり顔色も良くなり元気になった姫に手塚も不二も安堵し、束の間ではあるが、先の不安を忘れ楽しい時間を過ごした。
請われるまま、恐縮しながらも夕食もそのまま姫と一緒に膳を並べ、名残惜しげに見送ってくれた姫に挨拶をすると、不二は再び天井に戻った。
女中に案内され湯を使う手塚の安全を確認すると、城の中に異変はないか確認する。
秀吉は手塚に会うためだけにこの城に来たようで、不二が見回ったこの時にはもう、城を去ったあとだった。
長く伏せっていてやっと回復した姫を見舞うこともしないのかと思うと、やりきれなくなるが、手塚の心中を考えると、いないほうが良いだろう。
不二にしても警戒する人数は少ないに超したことはない。
昼の賑やかさとは打って変って元通り静かになった城で、不二は今、手塚が床に入ったのを確認し、自分も仮眠を取る為、梁に背を預けようとしていた。
明日は安土城に向かう。少しでも身体を休めておきたかった。

「不二」

だが、目を閉じようとした瞬間、手塚の自分を呼ぶ声がした。
短く応え、何かあったのかと緊張し僅かに羽目板をずらす。
暗闇に慣れた目で一瞬にして部屋の様子を探るが、特に変ったところはない。
少しほっとして手塚に視線を移せば、灯りを消し、障子からさす月明かりだけの部屋の中、布団に入った主が目を開けているのが見えた。

「誰もいないか」
「はい。ご家来衆の荒居様と池田様が二間空けたところで控えておられますが、それより近くには誰も」
「そうか。……では来い」

掛け布団の端を捲り、手塚が場所を空けた。白い寝間着姿の手塚が見える。
まさか、と不二は唇を噛む。
秀吉の城、警護の者はいても数は少ないこの城で、いつ誰が紛れ込むとも分からないのに、殿は自分を抱くつもりなのだろうか。

『これからは毎夜伽に来い』

つい先日囁かれた言葉を思い出した。あれはこんな場合でもなのだろうか。
逡巡する不二とは反対に、手塚はじっと不二に視線を合わせている。
忍でもないのにまるで不二が見えているかのように、強くはっきりと見つめている。
どうやらあの言葉に例外はないらしい。
不二は小さくため息をつくと、音もなく飛び降り、手塚の側に控えた。

「入れ」

下りたはいいが、そこから動こうとしない不二に、主の促す声が掛かる。
ここで躊躇ったところで時間が無駄に過ぎるだけ。だったら少しでも身体を休められるよう、早く済ませてしまったほうが利口というものだ。
内心のため息を押し隠し、不二は小さく了承を伝えると、手塚が横になっている寝具に近づき、光沢のある白い布団に手を乗せた。
絹だろうか。指に触れる豪奢な織り模様が美しい掛け布団は、ひんやりと滑らかで、如何にも権力を誇示する秀吉が好みそうな贅沢な物だ。
だがその極上の手触りを楽しむ間もなく、腕を掴んだ手に強くかれた不二の身体は、次の瞬間、手塚の腕の中にすっぽりと抱えられていた。
力強く打つ心臓の鼓動が、頬に触れる胸から聞こえてくる。
包み込むように回された手塚の左手が優しく背中をさすり、深い吐息が髪を揺らす。
暖かい、と不二は思う。
手塚の体温が、自分を包む空気がひどく穏やかで、身動きするのも躊躇ってしまい、不二は温和しく手塚の腕の中に収まっていた。
何も言わない手塚に倣い黙っていると、静けさが眠気を誘ってくる。
このまま眠ってしまいそうだ、と不二が思ったのと、自分が手塚の腕を枕にしていることに気づいたのはほぼ同時だった。

「どうした?」

気づかなかったとはいえ、自分の失態に慌てた不二が身体をずらそうと動くと、手塚が疑問の声を上げる。

「ご無礼を致しました。殿の腕に……」
「寝心地が悪いか」
「いえ、そうではなく、こうされては腕が痺れてしまいますから」

申し訳なさで小さくなった不二に、手塚はそんな事かと嗤い、場所を動かした不二の頭を元の場所に戻した。
背中を撫でていた手が髪を梳くように添えられたことで、不二の身体はより手塚に密着する。

「構わないからこうしていろ」

そう言う手塚に答える言葉が見つからず、不二は当惑気味に顔を上げた。
不二の額に触れるように、すぐそこに手塚の頬がある。
不二の視線に気づいたのか、手塚の目が「今度はなんだ」と問いかけた。

「あの……。いえ……」

何と答えていいものか、不二は言葉を濁して視線を下げる。
口に乗せられなかった言葉は、代わりに胸の内で広がっていく。
手塚はそのつもりで自分を呼んだのではないのだろうか。いつもなら触れたと同時にのしかかってくる手塚が、今夜はただ抱きしめているだけだ。場所を考慮して少し慎んでいるのだろうか。それともこうしていることで、何か要求しているのだろうか。例えば手塚がやるように口だけで……

「安心しろ。今夜は抱かない」
「え……?」

まるで不二の思考を読み取ったように、手塚が大きなため息をつき、ぼそりとそう呟いた。
そうして小さな子どもをあやすように、そっと不二の身体を揺する。

「今夜はここでゆっくり身体を休めろ。体調は万全にしておけ」
「僕の、為に……?」

それこそ何という自惚れだろうと思いながらも、不二は問うてみる。
いくら危険が伴うかもしれないとはいえ、一介の忍の為に心を砕くと言うのだろうか、この殿は。

「身体が疲れていた為に、イザという時の対応が出来なかったら困るだろう。……今の安土はお前が思う以上に殺伐としている筈だ。何が起こるとも限らない」
「もとより覚悟しております」

静かにけれどきっぱりと告げると、手塚は深いため息をつき、不二を抱く腕に力を込めた。

「ならば今宵は温和しく言うことを聞け。目を閉じて身体を休めろ」
「ですが……」

身体が密着しているから分かる手塚の変化が、それは本心でないと不二に教える。
もぞりと動いた不二に、声にしなかった言葉を聞いた手塚は小さく笑って、気にするなとばかりに、また髪を梳いた。
そしてふと意地の悪い笑みを浮かべると、耳元に口を寄せ囁いた。

「それともお前が寂しいのか?」
「なっ!何を言われますっ!僕は……っ!」
「冗談だ。……不二、くれぐれも無理はするな。無事に戻って来い。今夜の分はそれまでとっておく。……そうだな、だから今はこれだけで我慢しておくか」

不二を見つめる手塚の目が細くなり、近かった顔が更に接近する。
言葉を発する手塚の吐息が唇にかかり、柔らかなそれが重ねられた。
不二……と囁く声を間に、何度か触れ合わされる唇。
優しく、労るような口づけに、いつしか不二も力が抜けて、手塚に身体を委ねていた。
そして思う。

---もしかしたら僕は、この人を誤解していたのかもしれない

いつだって不二の気持ちなど構うことなく、自分の都合を押しつける男だと思っていたが、本当はそうではないのかもしれないと思う。
今夜の不二を想う手塚の気持ちに偽りは感じられない。
いつもの通り、彼が持つ正直な気持ちだと思える。
それが例え、明日危険な任務に赴くからだとしても、不二を思いやる心は本物だろう。
今初めて、不二は手塚が自分に向けているのが好意だと感じる事が出来た。
そしてまた自分も、それが厭わしくないことに気づいていた。

「不二、無事に戻れ」

手塚の言葉に、そして腕に包まれたまま、不二は眠りに落ちていった。
必ず無傷でお側に帰ります、と約束を口に乗せて。





  
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